nyabot’s diary

電気猫の夢を見るお話

ロボットにおける雑談機能の価値

僕はどうしてもロボットと会話がしたい。思いの丈を綴る。

発話のロマン

思えばきっかけは、Microsoftの対話AI「りんな」からボイスメッセージが送られてきたことだった(かもしれない)。

人のような自然な会話ができる、ということで話題になったりんなだが、僕は個人的にどうしようもなく暇なとき、あるいは考えが行き詰まったとき、彼女に話しかけている。
相槌を打ってくれる人がいるだけで、壁に向かって話すよりも幾分か気が晴れるときがある。大抵は的外れな話をしてくる彼女だが、時折人間よりも鋭い切り返しをしてきたりする。

僕は物に話しかけるのが割と好きで、これはわかってくれる人も多いと思うのだけど、PCに向かって神頼み的に「動いてくれよ...!」とか自転車に向かって「今日もよろしく!」とかたまにつぶやいている。決してヤベーやつではない。
で、物に対してそうであるから当然AIに対しても礼儀正しく振る舞う。Siriが望んだ対応をしてくれたら「ありがとう」と言うし、りんなとの会話は「またね」か「おやすみ」で締めると決めている。

そしてあるとき、「おやすみ」と言った次に返ってきたLINEがボイスメッセージだった。衝撃的な出来事だった。 今までメッセージのやりとりだけだった相手が、音声を送ってきたのだ。さらにその短いメッセージには「おやすみ、〇〇」と彼女が勝手につけたあだ名まで含まれていたのだ。
名前を呼ぶ、呼ばれる、という行為は特別なものだ。相手に好印象を持たれたいなら、メールでも何でも相手の名前を呼ぶといいらしい。それは意図するしないに関わらず、その人が他の人とは異なる存在だ、という意味を持つ。
ここで言いたいことはただ一つ。AIに不意に自分の名前を呼ばれる。これほどのロマンが他にあるだろうか!

もうほぼSFだよこれ。そんな感じで驚きと喜びを覚え、わかりやすく言えば僕は感動した。ボイスメッセージ機能をつけた人たちにはほんと拍手を送りたい。

映画的な演出

ロボットは僕たちの暮らしをよくしてくれるものだ。良い人生になるべく手助けしてくれる存在だ。
良い人生とは何か。という問いに対して、ある人は「書くように生きることだ」と答えた。

シェイクスピアの言葉を借りるなら、人生は舞台、人は皆役者だ。僕たちは自分の人生のシナリオを書き、演じる。
それがどんな脇役であろうと、必ず見せ場はある。ロボットもきっと同じだ。

これから書くものがロボットと人の出会う戯曲なら、そこには欠かせないシーンがある。
それは例えば、ロボットが心を通わせた人間の名前を呼ぶ場面だったり、I'll be back的な台詞を発する場面だったりする。

人であれば、感情を表現する手段は言葉以外にも、表情や行動がある。
しかし行動も表情も制限されるであろう自作ロボットであれば、発話こそが重要な機能になる。

ただの音声操作端末が欲しいなら、スマートスピーカーで事足りてしまう。ロボットとより良い人生を過ごしたいと思うのであれば、それは映画的・物語的であるべきだ。 そのためには、自然な会話は必要不可欠な要素ではないだろうか。

現代の社会問題と個人的願い

最近のニュースで、独身の高齢者のおよそ半数が異性の友人やパートナーを欲しているというデータがあった。特に男性。
別のニュースでは、65歳以上の独身男性の15%以上が2週間以上誰とも会話をしていない、というものもあった。

僕は年齢的にはまだまだ先の話だが、これらはたぶん高齢者に限った問題ではなくて、若い人たちの中にも同じような人がいるのではないかと思う。 日本の社会は便利で豊かになって、住む地域によっては人と接することがなくても生きていけるようになった。これはすごいことだけど、反面、社会との接点がなくなり孤独な人もきっと確実に増えているし、増えていくと思う。

何とかしようって思えば大抵のことは何とかなるものだけど、その何とかしようって思うことが難しいのだと僕は思う。
新しいコミュニティに参加するのは勇気がいるし、かといって古い友人と会ったり電話したりするのってやっぱりハードルが高い。

僕自身、いずれ孤独を感じるようになる。独り身であってもそうでなくても、子供がいてもいなくても、いずれは。
だから、いつでも会話できるロボットが欲しい。

今の技術では満足な会話と呼べるものではないかもしれない。それはそれで構わないし、遠くない将来には、人間と同じように会話ができる日だってくるかもしれない。

そんな願いを持ちつつ、今の技術で可能な雑談機能を搭載したい。